愛すべき、病んでるヴァンパイア伯爵
一
アルバン伯ヨアキム・ディ・ランジュが心臓発作で死んだとき、一匹の黒猫がひょいと彼の身体を跨いだことから、その晩、彼は死の淵より甦った。
世に言う、吸血鬼となったのである。
次にヨアキムが目を覚ましたのは、礼拝堂の祭壇に安置された棺の中だった。
彼はゆっくりと上半身を起こし、無数の燃えている蝋燭と大勢の領民の驚きにみちた顔を見た。
人間、信じられない事態を目の当たりにすると、すぐには行動できないものらしい。礼拝堂の中は水を打ったように静まり返った。
棺のすぐ傍には、呆気にとられた表情でげっそりとやつれた様子のアレンが立っている。
ヨアキムは蒼褪めた顔のまま、不思議そうに呟いた。
「どうもおかしい。私は一度死んだ気がする」
条件反射だろう、アレンが生前と同じく突っ込む。
「死にましたよ。というか、たったいままで死体でしたよ」
勘違いではなかったことになぜか胸を撫で下ろし、ヨアキムはニコッとする。
「やはりそうか。死んだのは初めてだから、さすがの私も驚いた」
彼の呑気な態度が癇に障ったのか、アレンはムッとして言い返す。
「いえ、我が君以上に私や領民の皆がびっくりですから。あり得ませんから。あと死人がニコッと可愛らしく笑う意味がわかりませんから」
幼い頃は身分違いの友人で、徐々に親睦を深めるも、その後は領主と使用人、いまはヨアキムたっての要請で近侍を務めるアレンは、彼を「我が君」と呼ぶ。
アレンの言葉にヨアキムは「もっともだ」と一つ頷いて首を横に傾げた。
「しかしなぜ死んだ私が生きているのだろうか」
その疑問に答えるべく、アレンの手がヨアキムの首筋に触れ、手首に触れ、鼻穴に掌を翳し、最後に死装束の上から心臓を押さえた。
生体反応がまるでないことは、ヨアキム自身が一番よくわかっている。
それでもアレンは止めを刺すようにきっぱり告げた。
「生きていません。ちゃんと死んでおります」
「ちゃんと死んでいるって、なんだかおかしくないか」
「おかしいですよ。おかしいですけど、いいですよ。ただ死んで腐るよりはましです」
アレンの言葉を真に受けたヨアキムは、自分の死体を眺め、安堵して言う。
「大丈夫、まだ腐ってはいないようだ」
ヨアキムがそう言うと、アレンは眼を怒らせ、こめかみに青筋を立てて彼を睨んだ。
「誰が本当に腐ってるかどうかの確認をしろと言ったんです。それは単に言葉の綾で、私が言いたかったのは、たとえ我が君が死んでいても、喋って動いて私の声に応えてくれた方がいいという意味ですよ」
「喋って動ける死体なんて、ぞっとしないな」
「我が君のことですけどね」
なにを言ってるんだ、と言わんばかりの白けた一瞥をヨアキムに向け、アレンは続けた。
「まあいいです。せっかく無事甦ったことですし、仕事を片付けてしまいましょう」
ヨアキムはポンと膝を叩き、相槌を打った。
「そうだ、仕事が半端だったな。私は確か、視察の途中で倒れたんだった」
「思い出しましたか。じゃ、とっととその死装束を脱いでくださいよ。着替えましょう」
アレンに公衆の面前で裸に剥かれそうになり、ヨアキムは慌てて胸元を押さえた。
「いや待て。私は仮にも一度死んだ身だぞ。堂々と生き返ってよいのだろうか。ちゃんと死んでいなくてはまずいのではないか」
「ですから、既にちゃんと死んでいるでしょう」
「うん、まあ、そうだね。いやいや、そうではなくて、ほらきちんと死者らしく墓の下で眠らなくていいのかなあ、と。こんなふうに元気に死んでいるなんて反則もいいところだし。模範的な死者としてはなっていないと思うんだ」
身振り手振りで釈明するヨアキムに対し、アレンが肩を竦めて言う。
「吸血鬼ですからね。仕方ないんじゃないですか」
「そうかな。だけど、ひっそりと死んでいた方が皆のためじゃないかな」
ところがアレンはヨアキムの考えを即座に一蹴した。
「私は我が君が甦ってくれて嬉しいですけどね」
そう言う割にはいかにも不機嫌そうで、眼が冷たく据わり、おまけに拳を揉んでいる。
ヨアキムはアレンの所作にビクつきながら、上目遣いでボソッと言う。
「とても嬉しい態度には見えないけど。ちょっと、いや、だいぶ刺々しくないかな」
彼がおずおずと指摘すると、アレンは鼻で嗤った。
「は、刺々しくもなるでしょう。甦るくらいなら、最初から死なないでくださいよ」
「無茶言うなあ」
するとアレンはヨアキムの頭を両手でガツ、と強く掴み、これ以上にないくらい顔を近づけて、恐ろしく低い声で言った。
そうされて気づいたのだが、アレンの眼は充血して赤く、眼の縁は腫れぼったい。
「無茶でもなんでも、本気です。この半日、私がどれだけひどい苦しみを味わったと思っているんです。我が君を喪い、号泣して号泣して、もう発狂する寸前でした。このまま我が君が目を覚まさなければ、私も明日の朝にはこの礼拝堂の床に冷たく横たわっていたでしょう」
ヨアキムは驚き、アレンに軽率な行為を慎むよう、窘める。
「いまどき殉死なんて時代遅れだよ」
命がもったいない、と続けると、アレンは苦しげに眉根を寄せ、眼を伏せて呟いた。
「我が君のいない世界なんて無価値ですから」
「え。それ、どういう意味だい」
「そのままの意味ですよ」
素っ気ない口調で言ったアレンに対し、ヨアキムはちょっと嬉しくなって言った。
「……すごい殺し文句だなあ。どうしよう、アレンと結婚したくなってきたよ」
「私は殴りたくなってきました」
物騒な台詞をスルーして、ヨアキムはアレンに(さっきこっぴどく詰られたばかりだが)ニコッと笑いかけた。
「だけど、愛の告白なら生きているうちにしてほしかったな」
「ふざけたことを抜かす口はどの口ですか」
ものすごく迷惑そうにアレンが顔を顰めるので、つい、ヨアキムはくつくつと笑ってしまった。
困った、楽しい。
死んだ身でありながら、たとえ不完全な存在としてでも、もう一度この世に戻って来られて喜んでいる自分がいる。
ヨアキムが手を伸ばすと、アレンがなんのためらいもなくその手を取って引く。
動いて喋る死体なんて気味悪いだろうに、そんなそぶりは欠片もなく、生きているときと同様の実直な態度を示してくれることに心が震えた。
ただ残念なのは、生きていれば感じられるだろうアレンの手の温もりが、わからなかったこと。
一抹の寂しさに胸を突かれて、ついヨアキムは口を滑らせ、訊かなくてもいいことを訊いてしまった。
「……私が死んで、悲しかった?」
ヨアキムを引っ張り棺から出る手助けをしながら、アレンが口を開く。
「……わざわざ訊かなくてもわかるでしょう」
本気で我が君の後を追うつもりでした、とアレンはぶっきらぼうに吐き捨てた。
自ら命を捨てること、それは永遠の断罪に値する――と口にしかけて、ヨアキムはやめた。
なんとなく、逆の立場でも同じ道を選んだかもしれない、とふと思ったためだ。
ヨアキムは口を閉じ、アレンから立ち竦む領民に視線を移した。
領民からは「アルバン卿」と呼ばれ親しまれる、ランジュ家のヨアキムは、早逝した父から爵位を継いで、まだ二年。ある事情により婚約も結婚もしていなかったため、いまだ独身だ。
アレンからは「一日も早くご結婚を」と催促される毎日を送っていた今日、彼はぽっくり死んだ。
それも春のポカポカ陽気の中、ドがつく田舎の領地を、アレンを伴に連れて徒歩で視察していたところ、急に胸が苦しくなってばったり倒れた。
突然の事態に取り乱し、アレンが叫ぶ。
「我が君!?」
寸前まで耕地を指さし、作付けの話をしていた農夫が慌てふためく。
「うわあ、どうなさったんで!? 大変だ、大変だ、アルバン卿が倒れたぞぉ」
あっという間に大騒ぎになった。
しかしかかりつけ医がヨアキムの居城へ駆けつけたときには既に手遅れで、彼の心臓は止まっていた。結局、倒れたきり一度も意識を回復することなく息を引き取ったのだ。
問題は、今後だ。
領主の座を譲り墓の下で死体としておとなしくしているべきか、動く死体として何食わぬ顔で領主を続行するべきか。
その選択をヨアキムは集まった領民に託すことにした。
話し合いは長く続かなかった。
不幸中の幸いにも教会の司祭がたまたま不在で、領主の訃報の知らせは彼の耳にはまだ届いていなかったのだ。
つまり、黙っていればわからない。
領民たちの結論はこうだった。見も知らぬ新しい領主より、領民のために心を砕くヨアキムの方がいいと。ただし一度でも吸血鬼として人を襲った場合は、教会に通報し、今度は然るべき手段を取り墓で眠ってもらう。
ヨアキムはこの決定を受け入れた。
二
アレンこと、アレンディー・サーチェスは、最初からアルバン伯ヨアキム・ディ・ランジュに傾倒していたわけではない。
なにせヨアキムは子供の頃から心臓が悪く、病弱で、『滅多に外に出ない領主様のご子息』だった。
アレンの認識も薄く、ごく稀に教会の日曜礼拝で姿を見かける程度に過ぎず、当然のことながら一度も口を利いたことすらない。
その彼らが知り合ったきっかけは、当時の領主――即ちヨアキムの父に「息子の遊び相手になってほしい」と頼まれたのがアレンだった。
アレンの家は代々ランジェ家に仕える使用人で、主に執事職または近侍を務めていた。主人の命とあっては断れるわけもなく、アレンの両親は二つ返事で了承したらしい。
ヨアキムの方が年上だったが、外見的にはアレンの方が年上のように見えるほど、ヨアキムは身体が小さく、手足も細く、全体的に弱々しかった。比べてアレンと言えば健康優良児の代名詞のようなもので、元気すぎるくらい元気で、両親も頭を痛めるほどだった。
あまりにも違う環境で育った二人が気の合うわけもなく、一日のほとんどをベッドの上で過ごすヨアキムといることに、アレンはすぐに暇を持て余した。
アレンが退屈しきって窓からボーっと外を眺めていると、ヨアキムが静かな落ちついた声で本を朗読してくれた。自然とその声に耳を澄ませ、聞き入った。アレンは文字の読み書きができなかったので、これまで本にはあまり縁がなく、その面白さを知らなかったのだ。
たちまちアレンは本の魅力に夢中になり、毎日毎日ヨアキムの元に通い、物語をねだった。
ほどなく、ヨアキムはアレンに「文字を覚えてみない?」と勉強を持ちかけた。「文字を覚えれば、本が自分で読めるようになるよ」と続けられ、アレンは俄然やる気が出た。
そうしてヨアキムと過ごす時間の半分を勉強、半分を本の朗読にあて、一年も経つ頃には子供向けの本は自力で読破できるようになっていた。
「次は計算を覚えてみない?」とヨアキムは甘いお菓子を片手に持って言った。「計算を覚えれば、時間の使い方に無駄がなくなるよ」と続けられ、アレンはポカンとした。するとヨアキムが優しく笑い、持っていたお菓子をアレンの口に入れた。それだけでアレンはやる気になった。
ヨアキムはアレンになんでも覚えさせた。文字を教え、計算を教え、行儀作法を教え、仕事を教え、同時に教養を身につけさせ、気がついたときには――アレンはヨアキムの近侍となり、彼の世話を一手に任されていた。
そして幼少期は病弱だったヨアキムも、徐々に発作の回数が減り、ベッドから離れていられる時間も長くなり、成人前には一般的な生活に支障がない状態まで快復した。
ヨアキムが子爵の称号を得て数年後、彼の両親が事故死した。そのためヨアキムが襲爵し、伯爵位を継いでアルバン伯となると、仕事量がどっと増え、アレンはこれまで以上に忙しくなった。
となると、次は結婚だ。
爵位を継いだ以上、嫡子の確保は最優先事項。ヨアキムは一日も早く妻を迎え、子供を作らなければならない。病弱を理由に婚約すらしていなかったヨアキムに、アレンは口うるさく結婚の重要性を説き、彼のために必死に優良な花嫁候補を物色、もとい検討し続けていた。
ヨアキムには、美しく、賢く、心優しく、健康な女性を娶って誰よりも幸せになってもらいたい。それだけがアレンの長年の望みだった。それなのに。
「どうしてぽっくり死ぬかな。老人でもあるまいし」
アレンはブツブツ小言を漏らしながら、機敏かつ丁寧に動く。
夜の食堂で、着席するヨアキムの目の前のテーブルにグラスを一〇脚並べた。
ヨアキムが心なしか蒼褪めて、臆したように訊く。
「なんだい、これは」
アレンは銀のトレイを脇に抱えて、平然と答えた。
「飲み物です」
「……血に見えるけど」
「飲み物ですってば」
「血に見える」
「細かいことは気にせず、お召し上がりください」
アレンはずい、と一番端のグラスをすすめたが、ヨアキムは頑として首を振る。
「嫌だよ。私は飲まないからね」
「なぜですか」
訊けば、ヨアキムはショックを受けた顔で反論してくる。
「なぜって、だって血なんて飲めないだろう。気持ち悪いじゃないか」
アレンは呆れて言い返す。
「なにバカなこと言ってるんです。我が君は吸血鬼でしょうが」
「血が苦手な吸血鬼だっている!」
「そんなだめ吸血鬼はいません!」
「ここにいる!」
「威張らないでください!」
「血を飲むくらいなら死んでもいい!」
「もう死んでます!」
「あ、そうか」
呑気な吸血鬼もいたものである。
ヨアキムは駄々をこね始めた。
「とにかく嫌ったら嫌だ! 血、怖い! 無理! 無理無理無理無理無理無理無理無理」
「どこの世界に血を怖がる吸血鬼がいるんですか、このっ、腰抜けヘタレ吸血鬼がぁ!」
「ひどい!?」
「どっちが!?」
こうなったら力ずくで喉に流し込んでやろうか、と一瞬だけ本気でアレンは考えた。
だが――そんな無礼なこと、できるわけがない。
アレンは怒鳴るのをやめ、肩を落として嘆息した。不本意だが、渋々と口を割る。
「……これでも心配しているんです。せっかく死から甦ったというのに、また死にそうじゃないですか。いえ、この場合は滅びそう、と言うのが正しいでしょうか」
沈黙を挟み、アレンはヨアキムをじっと見つめて説得にかかる。
「……あれから一年ですよ。我が君が吸血鬼として甦ってからもうそれだけの時間が経つというのに、一滴の血も召し上がらずにいるなんて無茶ですよ」
「私は人を襲わないと約束した」
「そうですね。そして我が君は今日まで約束を守り通しておられる。それは良いのです。ですが、そのために血液という吸血鬼に必要な栄養を得ることができず、危機に瀕している」
「だからって約束を違えたりしないよ」
「そんな心配はしていません。私も領民も。むしろ、領民たちの間では我が君を案じるあまり吸血を志願する者が後を絶たないくらいです」
アレンがそう打ち明けると、ヨアキムは眼を丸くした。
「冗談。なんでそんなことになってるの」
「領民にとって我が君が、なくてはならない素晴らしい領主だからです」
一年前、アルバン伯ヨアキム・ディ・ランジュが吸血鬼として甦り最初に行った仕事は、先祖代々受け継がれてきた宝物庫の貴重な品々を売り払い、莫大な資金を作ることだった。これを元手に「自衛のために」と領民全員に銀の十字架を配り、次に領民のための生活基礎整備に着手した。
橋や道路の補修、井戸の増設、毎年行われていた城の修繕を取りやめ、浮いた費用をすべて教会の外装工費にまわすなど、惜しげもなく大金を投じた。
それから社交シーズンになっても体調不良を理由に領地を動かず、社交用に用意されていた準備金は、かねてから問題視されていた野犬対策用の防護柵の設置に使われた。
ヨアキムは、日の出から夕方まで寝て、日が沈む頃に起きて領地を視察する。
そのとき必ず各家々の玄関や窓にニンニクがぶら下がっているか確認し、吸血鬼(自分)対策用に山査子の杭や首切り用の斧を常設するよう言い含める。
子供たちに出会えば「危ないから近寄らないで」とすぐに逃げ出す。
若い女性は徹底的に避けて、ばったり遭遇した際には「ひー」と悲鳴を上げるのはヨアキムの方だった。
夜は領民の不安を煽らないよう外出を控え、書類仕事をする。
正体がばれないよう教会にも通う努力をしたが、いつも扉口に辿り着く前に倒れてしまい、代理でアレンが出席した(教会には寄付をいっぱいすることで、怪しまれないよう努めた)。
いまは教会の隣の敷地に施療院を建設中で、これは領民たちにとってもなによりの朗報だった。
こんなヨアキムを悪く思う領民はいない。
それどころか、近頃明らかにやつれた様子のヨアキムを心配する声が方々で上がり始めた。
アレンはヨアキムに切々と訴えた。
「これは、有志により提供された血です。皆、健康体で病気持ちの者はいません。こうして自発的に供された血ならば摂取しても問題ないでしょう。どうぞお飲みください。飲んで力をつけてください。私は――私たちは、二度もあなた様を喪いたくないのです。どうかお願いします」
だがヨアキムは首を横に振り、グラスを押しやった。
「悪いけど、断るよ」
アレンはグッと唇を噛んだ。これだけ言ってもだめなのか、と悔しさが腹の底から込み上げてくる。もう――残す手段は実力行使しかない。
切羽詰まった思いに駆られるアレンの耳に、ヨアキムの押し殺した声が響く。
「――怖くて」
「え……?」
「――一度でも血の味を覚えたら、きっと求めずにはいられなくなる。それが怖くてね。情けないけど、これが本音だよ。それに人は、人血を飲まない。血を飲んだ瞬間に、私は本当の化け物になってしまう。それは嫌なんだ。私は運命のいたずらで吸血鬼になってしまったけれど、人としての尊厳まで失いたくない。たとえこの身が滅びようとも、最後の一線だけは、どうか守らせてほしい」
敬愛してやまないヨアキムの心の声を聞かされ、アレンは動揺した。まずい、と思った。これでは説得するどころか説得させられてしまう。それだけは避けなければ――!
ヨアキムの赤い瞳から眼を逸らし、アレンは呻いた。
「……だけど血を飲まなければ、滅びてしまうでしょうが」
アレンの耳に、ヨアキムが自嘲気味に笑う声が届く。
「……最初から、あまり長くはもたないとわかっていたよ」
聞き捨てならない台詞に怒りを覚えて振り返る。
「それはどういうことですか」
ヨアキムはテーブル上で指を組み、静かに語った。
「死から甦ってすぐに様々な文献を読み漁り、吸血鬼のことを詳しく調べたんだ。吸血行為は自分が滅びるのを防ぐためであること、血を吸われた相手も死後には吸血鬼となってしまうこと。そんなことになったら大変だよ。あっという間に吸血鬼だらけになってしまう。死なざる者、不死の命を得る代わりに、永遠に安らぎを失い、心を失い、愛を失う――耐えられない苦痛だ」
「私だって耐えられません! 我が君を失うなんて!」
堪らずにアレンは叫ぶ。ドン、とテーブルに手をついて、ヨアキムの方へ顔を近づける。
「なにか方法はないのですか。血を吸わなくとも、血を飲まなくても、滅びを避ける方法は」
ヨアキムは口ごもった。赤い瞳が落ち着きを失い、ウロウロとさまよう。
アレンはピンときた。
「――あるんですね。なんですか、教えてください」
「一つ、あるにはあるけど……言ったらアレンは困ると思うよ」
「困りません。教えてください」
アレンが即答すると、ヨアキムは少し考えてから言った。
「困ると思うけどな……本当に聞きたいの?」
「焦らさないで早く言ってください」
急かすと、ヨアキムは諦めたのか溜め息を吐いて重い口を開く。
「わかったよ。そもそも吸血鬼が血を吸うのは、血に含まれる生命力を得るためなんだ。だけど、もう一つ相手の生命力を吸収する方法があって――いや、この場合は分け与え合うと言った方が正しいのかもしれないな。どちらにせよ、命がない身でする行為でなぜ新たな命が芽生えるのか私としても納得はし難いのだが、書物によれば通じることで双方に得る力があることは間違いなく、また前例もあり――」
アレンは苛々して言った。
「よくわかりません。はっきり言ってください。つまりなんです」
「つまり、性交だよ」
「……せ、いこう?」
「男女が交わること」
アレンはヨアキムが口にした言葉を理解した途端、反射的に手が出ていた。
三
「……いきなり殴るなんてひどいじゃないか」
鈍い音と共に、ヨアキムはアレンに拳で頬を殴られていた。
アレンは顔を真っ赤にし、癇癪を爆発させて声を荒げる。
「人が真面目に訊いているのに、ふざけたことを抜かすからです!」
「私だって真面目に答えたよ。まあ殴られても痛くないから私は平気だけれど、アレンの手の方が痛かったんじゃない? 大丈夫?」
「大きなお世話ですよ。というか、仕えている主人に手を上げるなど本来ならば厳罰ものです。即刻クビでもおかしくない。それなのになぜあなた様は私の手の心配をしているんです!?」
アレンが肩を震わせ怒りながら、涙目になっている。
泣き崩れる寸でのところで踏み止まっているな、とヨアキムは見て手を広げる。
「私は心が広いからね」
涙を見られたくないのか、アレンがヨアキムに背中を向けて文句を言う。
「広すぎです。我が君がそんなお人好しだから、私が苦労するんじゃないですか」
「そうだね。苦労をかけてごめん」
「主人が使用人に謝らないでください」
「うん、ごめんね」
「ですから――もういいです。衝動で我が君に暴力をふるったこと、お詫びします。申し訳ありませんでした。処分はお任せ致します」
「処分なんてないから。殴られるような気持ち悪いことを言った私が悪いんだ」
ややあって、アレンが疑わしそうな声で問い質す。
「しかし……先程おっしゃったことは本当ですか? 本当に、その、せ、性交で生命力が得られるものなのですか……?」
「そのようだね。だけど吸血行為とは違って、交わっても相手の人間は吸血鬼にならない。ただ生気を吸い取られて、その分だけ寿命が縮む。吸血鬼が男で性交の相手が女性だった場合は、吸血鬼の子供を孕むこともあるみたいだ」
できるだけ生々しい描写を省き、淡々と説明したつもりだが、よほど衝撃的だったのかアレンは無表情で黙り込んでしまった。
しばらく黙考した後、アレンに表情が戻った。それもただ戻っただけではなく、やけに明るい。
アレンは生き生きとしたまなざしをヨアキムに向け、彼の両肩に手を乗せて言った。
「我が君、花嫁を迎えましょう」
思いがけない言葉をぶつけられ、ヨアキムの眼が点になった。
「は?」
アレンは眼を輝かせて力説した。
「美しく、賢く、心優しく、健康な女性を娶るんですよ! そうすれば合法的に万事解決します」
「吸血鬼と婚姻を結ぶ時点で非合法じゃないかな」
「吸血鬼と申請する必要がどこにあるんです。宣誓書に『アルバン伯ヨアキム・ディ・ランジュ』と嘘偽りなく署名すればいいだけの話でしょう」
限りなく神聖冒涜に近い気がする、とヨアキムは絶句する。
神罰がくだらないか、と言いかけて我が身を振り返り、既に神罰を食らっているようなものか、と諦めにも似た気持ちを抱く。だから心配なのは、むしろアレンの身だ。
だがヨアキムのそんな懸念をアレンはあっさりと振り払う。
「我ながら名案です。なにせ病めるときも健やかなるときも一緒なのが夫婦です。我が君に命を分け与えるのに配偶者ほど相応しい方は他にいません。早速、めぼしい相手を見繕いましょう。この際、持参金や家柄にこだわるのはやめて、若くて元気で可愛くて素直で体力のありそうな女性を選んで全力で口説くんです!」
アレンは無意識のうちにヨアキムの膝を割り、両肩を押さえつけ、上から顔を覗き込むような前屈みの体勢で圧し迫って言った。
「我が君の魅力をもってすれば、女性の一人や二人、一〇人や二〇人、口説き落とすことなど造作もありませんよ。とはいえ、なにぶん生涯の伴侶を選ぶわけですから、でたらめに口説いてまわるのもいけません。相性の合いそうな、できれば末永く愛することのできそうな、そんなお相手を選んで口説くのです。いえ、花嫁候補を集めるのが先決ですね。ではただちに――」
気が急くまま踵を返そうとしたアレンの手首をグッと掴んでヨアキムは引き止めた。
「ちょっと待った」
「はい、なんですか」
「暴走する前に、私の話を聞いて」
「はい、伺います」
アレンはピッと背筋を伸ばした。右の手首は強く握られたままだ。
ヨアキムの赤い瞳がアレンを映す。彼は落ちついた口調で話し始めた。
「あのね、私は吸血鬼だよ」
「存じ上げておりますが」
「その私に嫁ぎたいと願う女性がいると思う?」
「はい、思います」
力なく首を横に振りながら、ヨアキムはアレンの思い込みを否定した。
「まさか。いないよ。そんな奇特な女性いるわけがない」
ヨアキムに頭ごなしにそう断言され、アレンはカチンときた。すぐに反論する。
「なぜです。必ずいるに決まっています。我が君は見た目も良く、堅実で、心優しく温厚篤実な卓越した方です。それに人望が厚く領民にも慕われています。ただ一つ難があるとすれば、日曜礼拝に一緒に行けないことですが、祈りは別に教会からでなくても天に届くでしょうし重大な問題ではありません。誰だって一つくらい欠点はあるのですから、そこは眼を瞑ってもらいましょう」
アレンがきっぱりと言い切ると、ヨアキムは一瞬声を喉に詰まらせて、口を一旦閉じた。
まじまじとアレンを見つめて、ヨアキムが問いかける。
「……アレン、君、本気で言ってるの?」
「無論、本気ですとも。我が君は愛するに値し愛されるに値する、素晴らしい方です」
「冗談じゃなくて?」
「どうしてこんな冗談を申し上げる必要があるんです」
疑われるのは心外だと言わんばかりに腹を立てるアレンの眼は、まっすぐにヨアキムに向けられている。
「ふ」
堪え切れず、ヨアキムは噴き出した。
「くっ。あはははははははは」
「な、なにがおかしいんです」
「アレンの私に対する評価が偏っていて面白すぎる」
私はそんな善人じゃないのに、とヨアキムは独りごちた。
ひとしきり笑って落ちつくと、ヨアキムは力を込めてアレンを引き寄せ、左手首も拘束した。
にっこりと口角を吊り上げる。
「ものは相談だけど」
「はい」
「実は美しく賢く心優しく健康で、若くて元気で可愛くて素直で体力のありそうな女性に心当たりがあるんだ」
「えっ。本当ですか!?」
「それに相性もいいし、気さくなんだ。私が吸血鬼になった後も生前と変わらない態度で接してくれてね、怖がられないことにだいぶ救われたかな。私の容姿も好ましいようだし、嗜好や性格も熟知しているから、一緒にいて寛げる。日曜礼拝も私の分まで祈ってくると請け合って、私の辛い気持ちをいとも簡単に解してしまう。いつも私の幸せを願ってくれる――そんな彼女が好きなんだ」
「掻っ攫いましょう」
アレンは発奮して続けた。
「とにかく理由をつけて城に連れてくればこっちのものです。あとは我が君が念入りに口説けば落ちたも同然。もし言葉攻めが通じなくとも花や宝石、ドレスにお菓子、物で攻めて、それでも落ちなければ両親、親類縁者、友人知人を囲い込み、外堀を埋めてしまえばいいだけのこと」
ヨアキムはくつくつと笑った。
「はは、すごいな。本当にそんなことするつもり?」
アレンもニヤリと不敵な微笑みを返す。
「なんでもしますよ、我が君のためなら。その人のこと、お好きなんでしょう?」
「うん。ものすごく好き。世界一、大切に想っているよ」
「では逃がさないようにしないと。微力ながら、お手伝いします」
「ありがとう。でも、大丈夫。捕まえてはいるんだ。初めて出会ったときから色々なものを与えて、敵になりそうな者は排除して、私しか見えないようにどっぷり甘やかしてきたから」
「さすがです、我が君。抜かりないですね。でも水臭いですよ。そんなに愛しく大事に想う方がいらっしゃるなら、とっとと教えてくださればよかったのに」
アレンに拗ねた口調で詰られ、ヨアキムは寂しげに眼を伏せた。
「あいにく、私の一方的な片思いだったから」
ヨアキムの俯いた姿に胸を痛めたアレンは、力強く励ました。
「それは真剣なお気持ちが通じていないためでしょう。我が君が真心込めて胸の内の熱い想いを告白すれば、きっとその方も心動かされますよ」
ゆっくりと顔を上げてヨアキムがアレンと眼を合わせる。
「……そう? それで通じると思う?」
「通じなければ、通じるまで迫り倒しましょう。押しの一手ですよ!」
「へぇ。押しの一手、ね……そうか、強く迫られるのが好きなんだ? それは好都合」
「なにが好都合なんです?」
「実は一度、激しく迫ってみたかったんだ。怖がらせたくなかったから控えていたんだけど……」
うっすらとヨアキムが笑い、優雅にスッと立ち上がる。
アレンはヨアキムの気配が微妙に変わったことに気がついたものの、その理由まではわからなかった。
ヨアキムの表情と纏う空気の変化に戸惑いながら、アレンは彼を見上げて訊ねた。
「――それで我が君のお相手はどなたです? お名前は?」
「名前は、アレンディー・サーチェス」
「了解です。早速、お迎えに上がりましょう……って、え、あれ? いま言い間違えました?」
「いいや、間違えてない」
「だってそれ、私の名前ですけど」
ヨアキムがアレンを見つめてにっこり笑う。
アレンは尻込みし、ヨアキムの手を振り解こうとしたが振り解けず、気圧されるようにじりじりと後退し、とうとう壁際に追い詰められた。不本意にもヨアキムの腕の中に閉じ込められる。
ヨアキムはアレンの髪を指に絡めて口づけながら、低い声で囁いた。
「君が、私の想い人だよ」
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